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1: 名無しさん 2017/12/03(日)06:09:29 ID:6lJ
1 中 与那嶺要
2 遊 D.ブレイザー
3 一 川上哲治
4 三 長嶋茂雄
5 二 D.スペンサー
6 捕 野村克也
7 左 山内一弘
8 右 大下弘
9 投 沢村栄治

それぞれの選手について以下にWikipediaからのコピペも貼っとくで

 


引用元: ・http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1512248969/

3: 名無しさん 2017/12/03(日)06:11:21 ID:xCc
金本もはいるやろ

 


4: 名無しさん 2017/12/03(日)06:13:16 ID:PNq
新庄も入れたいな

 


5: 名無しさん 2017/12/03(日)06:13:57 ID:6lJ
1 中 与那嶺要

アメリカ仕込みのスライディング、タックルなどの激しいプレースタイルは、当時「スカートをはいたお嬢様野球」と揶揄された日本プロ野球に新風を吹き込んだ。

「スライディングの際、足の甲で相手野手のグラブを叩いてボールをこぼれさせることでセーフになる」という走塁技術や、
現在では当たり前に行われている打者の一塁ベースランニングの常識(コーナー内側を足で蹴り、90度の角度にすばやくスライドする)を日本プロ野球界に普及させた選手でもあった。

 


9: 名無しさん 2017/12/03(日)06:15:15 ID:6lJ
また、犠打ではなく進塁を目的としたドラッグバントや、フライ球へのダイビングキャッチなどの新しい戦術は、与那嶺によってもたらされたと言われる。

日本プロ野球界の走塁の意識を変えた外国人選手として、与那嶺はダリル・スペンサーと共に名前がよく挙がる選手である。

加藤良三は「日本の野球に革命をもたらしました。戦闘的スライディングはその一例で、芸術的な打撃はいまもまぶたに残っています」と語っている。

川上哲治は与那嶺について「とにかく、足が速かった。速いだけでなく、それまで見たこともないような頭を使った走塁術がすごかった」と振り返っており、
「当時の日本の野球は、ただ打って、投げる、という単純な野球だった。そこに、彼が米国の進んだ野球を持ち込んできた。そういう近代野球への目を開かせてくれたという意味で、大きな貢献だった」とその功績を称えている。

 


10: 名無しさん 2017/12/03(日)06:16:17 ID:g8M
>>9
加 藤 良 三

 


12: 名無しさん 2017/12/03(日)06:17:16 ID:6lJ
2 遊 D.ブレイザー

ブレイザーが南海に来た時、野村克也はしょっちゅう食事に連れ出し、どうしてその体でメジャーで生き残れたのかを聞いたところ、ある日ブレイザーから
「君が打者の時にヒットエンドランのサインが出たらどう対処する?」と聞かれ、野村は「フライと空振りはダメ。どうにか打球を転がす」と答えた。
ブレイザーは「それだけか? まだあるぞ! 走者がいるということは必ずセカンドかショートが二塁ベースカバーに入るのだから、セカンドが入れば一二塁間、ショートが入ったら三遊間方向に打球を転がすんだ」
とさらりと答え野村を感服させた。
バントの正確さにも定評があった。セーフティーでは三塁線のラインぎりぎりに転がすことが多く、切れそうで切れないゴロは芸術的だった。
捕球、スローイングと基本的な技術の確実性が高かった。派手さはないが、捕ってからの送球までの流れが速く、ミスも少ない。南海の投手陣は「困ったらドンの方向に」が合言葉だった。
以上のことから野村は、「自分のID野球の源流はブレイザーにある」と常々語っている。

野村は「ブレイザーは私に考える野球を教えてくれた恩人」と著書で記している。
野村によると、ブレイザーは最初のミーティングでそれまで南海の選手が見たことも聞いたこともなかった野球理論や知識を伝授し、シンキングベースボールの奥深さを教えた。緻密な野球を組み立て、日本球界に革命をもたらした。

 


13: 名無しさん 2017/12/03(日)06:18:43 ID:xCc
影響を与えたでは金本の出場記録は怪我をしないことの大切さ
1002打席無併殺記録は4番にしてチームバッティング全力疾走これは結構影響与えた選手やないかな

 


17: 名無しさん 2017/12/03(日)06:22:21 ID:g8M
>>13
影響受けた人はいると思うけど金本以降プロ野球が変わったのかっていうとな
いまだに全力疾走しないやつもいっぱいおるし

 


18: 名無しさん 2017/12/03(日)06:23:58 ID:xCc
>>17
あかんか

 


15: 名無しさん 2017/12/03(日)06:19:28 ID:6lJ
3 一 川上哲治

戦力に乏しいロサンゼルス・ドジャースが毎年優勝争いをしている点に注目し、ドジャースのコーチのアル・キャンパニスが著した『ドジャースの戦法』をその教科書として、春季キャンプからその実践に入った。
コーチ兼任となった別所毅彦が鬼軍曹的な役割を担い、選手たちに猛練習を課した。また、コーチとして招聘した牧野茂が中心となってサインプレーや守備のカバーリングなどを日本のプロ野球界で初めて導入していった。
また、選手のプレーひとつひとつに、そのプレーの状況別の意味合いなどを踏まえながら細かい点数を付けて、チームを運営していく独自の「管理野球」を構築した。

川上は日本球界で初めて専属広報をおき、坂本幸夫が初めてその役を担った。
川上はグラウンドの権限のみならずスカウト部長を兼任するなどチーム編成の面でも権限を掌握しており、栄養学、ランニングコーチ制の導入など新機軸を次々と打ち出していった。

 


16: 名無しさん 2017/12/03(日)06:22:15 ID:6lJ
4 三 長嶋茂雄

1959年6月25日、後楽園球場で行われた対阪神戦は、昭和天皇が試合を観戦する日本プロ野球史上初の天覧試合となった。
試合4対4で9回裏を迎える展開となる。この際、決着が着かず延長戦になった場合、時間が押している天皇をどうするか、9回を迎えた時に関係者が深刻に悩み始めていた。
9回裏、阪神は、先発の小山正明を交代し、2番手の村山実が登板。打席に立った先頭打者の長嶋は、カウント2ストライク2ボールからの5球目・内角高めに食い込んできたシュートを叩いた。
打球は左翼スタンドへ伸びて劇的なサヨナラ本塁打となり、同天覧試合は巨人の勝利で幕切れとなった。
この試合は、大学野球時代からスーパースターであった長嶋が放ったサヨナラ本塁打ということもあり、そのドラマ性も相まって大きく報道され、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった。
それまでは大学野球が一番人気で、金銭を取って野球をするプロ野球は軽んじて見られている面があったが、以降は国内におけるプロ野球の人気が高まっていった。「この試合からプロ野球の隆盛は始まった」ともいわれている。

 


19: 名無しさん 2017/12/03(日)06:24:20 ID:6lJ
5 二 D.スペンサー

「ドクター・ベースボール」と呼ばれるほど尊敬された人物。

1965年7月16日、サイクル安打を達成。日本では当時サイクル安打という概念は無く、スペンサーはサイクル安打を達成した際、自ら記者に「なぜ自分に質問をしてこないのか。これはサイクル安打といって、とんでもない記録なんだよ」と言ったという。

青田昇は「ナンバーワンの外国人はスペンサー」と語っている。スペンサーは投手のクセや捕手のクセを見抜く眼力が長けていたという。
またスペンサーの弟子である高井保弘によるとスペンサーは投手が投げるたびにメモを取っていたといい、それから自分も投手のクセを盗むようになったという。
野村克也は「日本のプロ野球を変えたのはスペンサーとブレイザー」と口癖のように言うという。

 


20: 名無しさん 2017/12/03(日)06:26:59 ID:6lJ
6 捕 野村克也

阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止する為、投手に素早いモーションで投球させた。これが後のクイック投法の原型である。
クイック投法の重要性自体は三原脩が既に提唱していたが、南海投手陣にその意識をもたせてリーグ戦で使い、パ・リーグ全体に普及させたのは野村だった。
この頃は現役生活も晩年に差し掛かって肩が衰えており、それを補うために考え出した策である。

1976年に江本らとのトレードで阪神から獲得した江夏豊が、移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏をリリーフ専任投手として再生することを決断。
「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で江夏を説得し、江夏は1977年6月からリリーフに転向。この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。
江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。
投手分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在や、江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。

テレビ朝日解説者時代には、ストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」による配球の読み、打者・投手心理の解説が評判になる(「次の球は、ここに投げておけば必ずファウルになる」と予想し、その通りの結果になったなど。)
これは野球中継では初の試みであった。

 


21: 名無しさん 2017/12/03(日)06:28:31 ID:9Vb
野村推しやな
スペンサーとブレイザーと野村は一つにまとめた方がええやろ
野村の緻密な野球の元祖がブレイザーなら野球史に影響を与えたのは野村じゃなくてブレイザーやん

 


23: 名無しさん 2017/12/03(日)06:30:11 ID:6lJ
>>21
確かにその3人はひとまとめの方が良かったかも

 


22: 名無しさん 2017/12/03(日)06:28:55 ID:6lJ
現役晩年を野村指揮下で過ごした渡辺久信はヤクルト時代での体験を著書『寛容力 怒らないから選手は伸びる』で振り返り、カルチャーショックだったと語っている。
曰く、野村ヤクルトは西武では考えられないほど、まず何よりミーティングに長い時間を費やした。
そしてその形式も非常に独特のものであり、野村が延々と講義しながらホワイトボードに板書し、選手はそれを耳で聞いていては理解が追い付かないので、ノートをとって試合、オフ時間に見返す、というまるで学校の授業のようなことをしていたという。
その講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時「常勝軍団」としてNPB界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら実践していなかった深いものだったと語っている。
特に打球カウント別の打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを感づかせてくれるような機知に富むものであったという。
トーマス・オマリーは「監督、大好きね。リスペクトしているんだ」、「とにかく色々教わった。データから相手の強み、弱み。すべて理解し準備した上で試合に臨むことが重要だとね。」と述べている。

 


24: 名無しさん 2017/12/03(日)06:31:54 ID:xm1
野茂は必要ちゃうか

 


25: 名無しさん 2017/12/03(日)06:32:10 ID:6lJ
7 左 山内一弘

同じリーグで同じ右のスラッガーであった中西太とは、互いに認め合うライバル関係であった。
二人は当時の球界を代表する強打者であり、かつ打撃のスタイルが全く異なっていたことから、同世代・次世代の右打者たちの間で「中西流」「山内流」という言葉が生まれ、参考にされる存在であった。

掛布雅之、水谷実雄、高橋慶彦、田淵幸一、真弓明信、原辰徳といった選手達を指導し、その打撃理論で数々の名打者を育てた。
また、阪神の助っ人選手として活躍したハル・ブリーデンやマイク・ラインバックなどには、「阪神が弱くなったのは山内コーチを辞めさせたせいだ」とまで絶賛されている。

ロッテ監督時代、新人だった落合博満の打撃指導をしていたが、「俺のことはほっといてください」と言われる。
1982年、落合が三冠王を獲得した祝賀パーティの席で、山内は「一目見た時からいい打者になれそうな予感があったから指導したんだ、けれどもまさか三冠王を取るバッターになるとは思っても見なかった」と話した。
落合本人は、後に「当時は山内監督の高度な打撃理論が理解できなかった」と語るなど、あくまで当時の山内の指導が自分に合わなかっただけであることを認めており、山内の人柄・打撃理論、また指導などに関して、自著で感謝の意を述べている。
実際にその後に出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かったという。落合は山内から伝授された打撃練習法を現役晩年まで実践していた。
また、落合は現役時代7人の監督の下でプレーしたが、その中で「野球」を教わったのは山内と稲尾和久だけであると語っている。

 


26: 名無しさん 2017/12/03(日)06:32:14 ID:vm6
野茂はどうだろうか
あそこからメジャーと言うものへの挑戦が本当の意味で始まったとワイは思う

 


27: 名無しさん 2017/12/03(日)06:33:02 ID:xCc
ピッチャーは沢村栄治が強すぎやろ

 


29: 名無しさん 2017/12/03(日)06:34:19 ID:vm6
>>27
そこは打線と言わずトップテンとかにしとけば入れられたんじゃ?

 


31: 名無しさん 2017/12/03(日)06:35:43 ID:6lJ
>>29
せやな

 


32: 名無しさん 2017/12/03(日)06:36:02 ID:vm6
>>31
まま、ええんやで

 


28: 名無しさん 2017/12/03(日)06:33:13 ID:6lJ
8 右 大下弘

1946年に20本塁打を記録。
20号本塁打が近付くと、球場では観客と報道陣が20号はまだかと大合唱した。
大下の出現は敗戦に打ちひしがれた国民を狂喜させ、空前絶後の本塁打ブームが起こり、当時のリーグを代表する打者であった川上哲治でさえも本塁打狙いの打撃フォームに変えたほどである。
強いゴロがバッティングの理想論とされた時代にあって、大下の登場は革命的であった。

1947年のシーズンからバットに青のラッカーを塗装し青バットを使って本塁打を連発、赤バットの川上哲治と共に大ブームを起こす。

 


30: 名無しさん 2017/12/03(日)06:34:42 ID:6lJ
9 投 沢村栄治

その年の11月に開催された読売新聞社主催の日米野球の全日本チームに参戦する。
5試合に登板(4先発)したが、中でも11月20日、静岡県草薙球場で開催された試合では、7回裏にルー・ゲーリックにソロ本塁打を浴びたのみで、メジャーリーグ選抜チームを8回5安打1失点と好投した(スコアは0対1。ゲーリッグの一発が決勝打)。
これ以外の4試合では滅多打ちにあって沢村自身0勝4敗に終わったが、この年の日本選抜対メジャーリーグ選抜の試合が日本の0勝16敗に終わったため、この快投は現在でも日本で語り草となっている。

1947年7月9日、巨人は沢村の功績をたたえて背番号14を日本プロ野球史上初の永久欠番に指定した(戦死から永久欠番指定までの間、今泉勝義や坂本茂が巨人の背番号14を使用していた)。
また、同年に沢村の功績と栄誉を称えて「沢村栄治賞」(沢村賞)が設立され、プロ野球のその年度の最優秀投手に贈られることとなった。

 


33: 名無しさん 2017/12/03(日)06:36:19 ID:9Vb
沢村も弱いな
偉大な選手であることは間違いないがじゃあ沢村が野球界にどんな影響を与えたのか教えてくれないか?
日米野球で活躍した?だから?

 


34: 名無しさん 2017/12/03(日)06:36:50 ID:vm6
>>33
沢村賞樹立させた影響はでかいやろ

 


41: 名無しさん 2017/12/03(日)06:42:21 ID:eJG
はえー勉強になったわ

 


42: 名無しさん 2017/12/03(日)06:46:47 ID:3S9
昔の凄い選手紹介してるだけやん

 


43: 名無しさん 2017/12/03(日)06:47:19 ID:6lJ
既に指摘されてるように野茂とイチローは入れるべきやったかも

 


44: 名無しさん 2017/12/03(日)06:57:37 ID:QMo
ワイも沢村はどうかなと思う。日米野球以外は大活躍を続けたというわけでもないし
沢村賞も「死ぬまで面倒見るぞ」って言った巨人があっさりポイーしたから、その引け目もあるんちゃうかとすら思う

影響という意味では野茂の方がデカいわな。日本人もメジャーでやれるってことを証明したのはデカい